さらだたまこの小玉林

いつかはきっと大希林を目標に言葉を磨く小玉林のことのは帖

毎日が記念日

『朝の歳時記』というラジオ番組の台本をかなり長い間書いてました。CBC中部日本放送)の制作で、名古屋の放送局ですが、東京支社のスタジオで収録して作っていたんですね。昭和41年に始まって、平成17年の3月に惜しまれつつ終わりました。月曜〜土曜まで毎朝5分間。放送は1万回を超え、もうすぐ40年という半年前に幕を閉じたので、本当にリスナーの人から辞めないでの声は多かったですね。私はおそらく39年の歴史の中で、15年くらい関わったと思います。CBCのラジオ番組は高島忠夫さんの「ミュージックパスポート」というのも構成していて、途中から歳時記をやるようになった記憶があるのですが、いつからはじめたかは思い出せないのです。
 で、朝の歳時記のパーソナリティは俳優の川久保潔さん。NHKの放送劇団の創立期からというベテランの役者さんです。そもそも私が放送の仕事を目指したきっかけは、NHKのアナウンサーで紅白歌合戦の初代司会者だった藤倉修一さんが渋谷で開いていた寺子屋式の「アナウンス学園」のに通いはじめたこと。で、川久保さんも昔から藤倉アナウンサーをよくご存じということで、藤倉先生の米寿のお祝い、卆寿のお祝いのパーティーにも一緒に行くなどのご縁がありました。
 さて、番組では冒頭「本日の歳時記」として今日は何の日、どんな出来事があったかを前振りにして、後半はトレンドな話題をテーマに川久保さんが語るラジオエッセイ風に構成されていました。なので、台本を書く身とあっては、毎回、その日の歴史的出来事を調べないといけません。今だとネットですいすい調べたりできますが、15年前は、その手の本を何冊も積み上げ、また新聞のバックナンバーを何年も遡って調べたり、それだけで大変でした。毎年その日になると同じネタではいけないので、なるべくいろんな出来事を調べようとするのですが、何もない日は、本当にネタが不足してる。そういうときは、記念日、有名人の誕生日で誤魔化そうとしたのですが、よほどネタに困ったとき以外は、誕生日や記念日ネタはなるべく使わないなどルールがあって、書くのに本当に頭を悩ませたのです。

 さて明日、8月19日は、語呂合わせから「俳句の日」「バイクの日」。そう言えば放送開始から10数年は朝の歳時記の冒頭で有名な俳句を引用していました。私が担当になった時は構成者が新しく3人体制になったのですが、俳句の引用は大変だということで、今日は何の日ネタに変えようというプレゼンをした覚えがあります。そのころはまだ俳句のたしなみがなかったから。今だったら、作家ごとに冒頭で一句、詠んでみても一興だったかと思います。朝の歳時記なんですからねえ。
 

怯懦

おじけずき、臆病な様。おっかねー! と二の足踏んでるとかっちょワルーいかもしれませんが、「それは私の怯懦(きょうだ)であった」などと述べてみると、とたんに男らしい感じになります。

 懶惰と怯懦。よく考えると懶惰な人生を送ると、怯懦な性格になってしまたり。実はこの二つは一人の人間が併せ持ってるものかも。最近の流行で言うメタボリックシンドロームみたいなもんですね!

懶惰

懶惰とはなまけ、怠るさま。「らいだ」ともいいますが「らんだ」の読みが正しいのです。懶惰な生活を送る、という風に使います。だらしない生活とは違うのです。懶惰というと、やたらかっこいい感じ。そこには文学があり、哲学的な信条が感じられます。谷崎の世界ですね!久世さんは、彼の著作で作詞家のなかにし礼さんの才能を高く評価してますが、懶惰な人生を送らなければ出てこない言葉などと書いていたり。やはり懶惰は懶惰であって、他の言葉では代替できない。レイジーとも訳せないですね。デカタンスというとちょっとまた違うわけで。@ランダム! それはオヤジギャグです!!!

幻の大希林テーマ

 最近は再放送もされなくなって、「またやらないの?」と言われる大希林。樹木希林さんが「弥勒」さんなる不思議な女性に扮して毎回言葉をテーマにミニドラマを展開したNHK教育の番組でした。私はその脚本を書いていたのです。できることならまた続編を書きたいけど、演出家の久世光彦さん亡き今は、やはり無理でしょうか? あの番組はやはり久世ワールドですもの!! 
 さて、久世さんとは彼が社長だったテレビ制作会社KANOXで「料理バンザイ!」という番組を構成したのが縁でのおつきあい。今も、実は久世さんのエッセイ「マイ・ラスト・ソング」(文藝春秋)の世界を軸に、久世さんが愛した昭和という時代を、時代を彩った歌謡曲とともに振り返るという番組を、久世さん秘蔵っ子の演出家と一緒に作り続けています。テレビではなく、USENのラジオコンテンツで「昭和ラヂオ」というチャンネルで聴くことができます。久世さんになりきって朗読しているのは俳優の松山政路さんです。私の仕事は、原作の久世さんの文章の合間に、解説のナレーションをはさみこみ、選曲する構成を担当しています。約1時間の台本を構成するのに、かなりの日数を費やします。解説部分と曲紹介は城ヶ崎祐子アナ。松山さんと城ヶ崎さんのナレーションで綴る昭和のコンピレーションアルバム。選曲は歌謡曲からフォーク、映画音楽、シャンソン、クラシックと幅広いので、他では聴けない面白い選曲になっています。
 で、久世さんの原作を読んでいると、ああ、これは「大希林」ネタに、使えそうだと思ったのが「懶惰(らんだ)」と「怯懦(きょうだ)」です。意味は全然違うけど、セットにすると韻を踏んでるように聞こえて、印象深い言葉となります。両方とも久世さんの文章によく出てくるのですっかり学習してしまいました。

戯れに恋はすまじ!

 戯れといえば、ミュッセの有名な本のタイトルを思い出します。素晴らしい邦訳だと思います。
 原題は《On ne badine pas avec l'amour》・・・・・・私が訳すと「冗談で愛しちゃいけないよ」みたいな凡訳になりますね。   「戯れに恋はすまじ」ともいいます。私が15歳のころ雑誌のタイトルでみたのは「すまじかな、戯れの恋」だったかなあ。
 でね、まだミュッセとかよくわかってない私は「「すさまじきかな! 恋は戯れ」と覚えてしまったのです。私の勝手な解釈だと、
「(恋とは)すさまじいものだ! しょせん戯れにすぎない恋だとしても!」・・・・・・つまり恋というのは戯れであって、でも、戯れゆえに相手をすさまじく愛するモノだと! 修羅場とか激情とかそういう言葉を聞くと「すさまじい恋」に戯れたいと乙女心を熱くしたものでした。
 戯れなければいけませんよね! いくつになっても! 恋にも仕事にも!!!

遊びをせんとや生まれけむ

「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」・・・・・・有名な梁塵秘抄の一節です。口語訳では「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうかと」となるのですが、私のような日々創造で生きようという人間には「遊びをしないと(作品は)生まれないよ!」「戯れないと(創作)はできないよ!」と聞こえます。  最近、倉庫やクローゼットの奥深くに埋蔵していた過去の原稿を整理しようと、発掘して読み返したりしてますが、若いときはもっともっと遊びの振れ幅がラジカルだったなあと思うのです。だんだんキャリアを重ねていくと、サクサク書く割りに発送が凡庸になってくるのです。